Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0

自発性の最近のブログ記事

libertarian, sceptic, compatibilist

|

この記事は以下のURLに場所が変わる予定です。
http://www.nozawashinichi.sakura.ne.jp/fs/2008/06/libertarian-scepticism-compati.html

まだ読み進められなくて、相変わらず一章をうろうろ。
でもこの本で語られている考え方が頭の中でまとまってきた。

***

自由意志と決定論は両立しないものだと
考えられてきたし、
直感的にはそう考えるのが自然だろう。

われわれがどのように振る舞うかということは
われわれの意志にもとづいていて、
その意志は何者にも束縛されない。
それが直感的に浮かぶ自由意志のイメージだろう。

しかし、そこに17世紀に誕生した近代物理学が立ちはだかる。
すべての物質の振る舞いは、
究極的には方程式で記述することができ、
ある時刻の物質の状態がすべてわかれば、
その後の時間発展はすべて方程式によって
演繹可能であるというのが決定論である。

意志を生み出す臓器として現時点でもっとも確からしいのは
脳であり、脳もまた物質によって構成されている。
決定論が成立するならば、
意志を生み出す臓器である脳の振る舞いが記述できたとときに、
われわれの意志というものも予測可能になってしまい、
もはや自由とは呼べなくなってしまう。

量子力学によると物質の運動量と位置を同時に決定することは
できず、運動量を精確に測定しようとすれば位置の精確さが
犠牲になり、位置を精確に測定しようとすれば
逆に運動量の精確さが犠牲になり、
両方を同時に一定以上の精確さで決定することはできない。
これによりミクロな世界における決定論は崩れ去るのであるが、
世界を決定的に記述することができないということは
自由意志を救うであろうか?

物理過程が非決定的ならば、
物事の振る舞いは何によって決まるのか。
木から落ちる葉っぱの振る舞いや、
つま先で蹴った石ころの行き先。
それらは偶然そのような軌跡を辿っただけなのだろうか。
それならば意志をもって行った"つもり"のあなたのその行為も
偶然にそのようになっただけということになりはしないか。
偶然になったことを意志と呼んでいいのか。
そしてあらかじめ決めることの出来なかったその行為は
自由であるのか。

自由意志と決定論が両立しない(incompatible)とする立場をとる人は、
結局次のどちらかになってしまう。
決定論を認めて、自由なんてないとする懐疑論者(scepticism)。
決定論を認めず、我々はあくまで自由だと主張する自由論者(libertarianism)。
そうして、自由論者は風に舞い上がる砂の粒の振る舞いと
コーヒーカップに手を伸ばすという意志を持った行動のうち、
後者が真に自由な行動であることを説明できなくてはならない。
おそらく、誰も出来ないだろう。

Libertarians must be able to explain how the causally undetermined
events that they see as free actions really that: genuine free actions.
They must explain, despite of its being to some degree of chancy whether they occur,
these purported free actions differ from movements, such as reflexes and twitches,
that are blindly random.
(うまく表現できないので抜粋)

だから、現代の哲学者のほとんどは、懐疑論者になるか、
そもそも自由意志と決定論が両立"しなくはない"とする
両立論者(compatibilism)の立場をとる。

  • incompatibilism
    • sceptism
    • libertatianism
  • compatibilism

***

libertarian、libertarianismという言葉遣いがよく分からなかったんだけど、
incompatibilismな立場においてややナイーブに自由意志が
成立しうることを主張する、ようなスタンスのことかと思う。

レヴィ飛行

|

この記事は以下のURLに場所が変わる予定です。
http://www.nozawashinichi.sakura.ne.jp/fs/2008/04/post-12.html

カオスと偶然の数学
アイヴァース・ピーターソン著

ハエの自由意志の論文としてちょっと話題になった、
PLoS ONE: Order in Spontaneous behavior
という論文に、
レヴィ飛行(Levy flight)とかフラクタル秩序(fractal order)という言葉がでてくる。
(但し、論文中には自由意志という言葉は1回も出てこない。)

カオスとか力学系の世界で使われる言葉だろうなというのはわかるのだけど、
読んでいてもピンとこなかったのでググり、
森山和道さんの書評で、この本が引っかかった。

全部読んだわけじゃないけど、
自分の研究に関係ありそうなところをメモ。

***

レヴィ飛行

無限小から無限大まで歩幅が変化して
その平均距離や特有の距離が計算できないようなランダムウォーク。

レヴィのランダムウォークはさまざまな歩幅で歩き回り、
大きな歩幅で歩く確率は小さな歩幅で歩く確率よりも
比例して低くなる。
飛行距離を横軸、発生確率を縦軸にとったときに、
power-lowになっているようなランダムウォークか?
ブラウン運動のようなランダムウォークは歩幅はいつも一定。

短い飛行を間にはさんだ長い飛行からなっていて、
ある部分あるいはその中の一部分を拡大しても、
元の尺度でのパターンに非常に似ているパターンが必ず現れてくる。
このことから、レヴィ飛行はフラクタル幾何学であることがわかる。

この本の中には、
アホウドリの飛び方がレヴィ飛行になっていると書いてあるんだけど、
最近の研究でそうではないことがわかったらしい。
http://d.hatena.ne.jp/tatsuamano/20071115

Levy flight in wikipedia

***

近似エントロピー(approximate entropy)

一定の間隔で観測されたデータが決定論的な系から得られたものなのか、
またはランダムな系から得られたものなのかを区別する新しい方法のひとつ。

近似エントロピーは不規則さを測る方法のひとつ。
数列のランダムさを特徴付ける。
この方法は、数列がどのように生み出されたかなど、課程に関する
どんな仮定にも依存していないので、様々なデータに応用できる。

例えば、データが二進数で表されていたとしよう。
この場合には、三つの連続した数字からなる8つのブロック
ー000,001,010,011,100,101,110,111ー
がそれぞれ与えられた列の中にどのくらいの頻度で
現れるかが問題となる。
八つのブロックが全て等しい割合であらわれた時に、
もっとも不規則であると考えられる。

---
それって、オレが修論で計算したエントロピーと近い。
修論では、試行間の差分の分布が偏りがある分布になっているかを、
フラットかを分布のエントロピーを計算することで
行動の時系列がランダムかどうか評価した。

だけども、
Approximate Entropy (ApEn)
by George B. Moody

この記事をみると、上記の説明が本当に正しいのか
疑わしい。

この近似エントロピーなる量ApEnは繰り返しのパターンがでる回数を
おもに評価しているらしい。
(A time series containing many repetitive patterns has a relatively small ApEn)

ApEn( S(n), m, r )

時系列S(n)があって、mは連続する何試行をひとつのブロックとしてみるかであり、
rはどれぐらいの差があっても同じと見なすか。
んで、・・・いろいろ計算して、・・・
すごく大雑把にいうと、
まず、mで同じと見なせるブロックの和を数えて、
次にm+1にしたときの同じと見なせるブロックの和を数えて
両者が近ければ近いほどエントロピーは小さくなるという
論法らしい。

***

ローレンツと自由意志

「ブラジルでのチョウの羽ばたきは、
テキサスで竜巻を起こすか?」

ローレンツの心にあったのは、
もしチョウの羽ばたきで竜巻がおこせるなら、
それが別の要因でおこる竜巻を防ぐこともあろう、
ということだ。

ある攪乱はたいてい別の攪乱で相殺されるのである。
とはいっても、カオスは存在する。
それはランダムなように見えるが、
コントロールすることが出来る。
初期状態への鋭敏性の効果は、
スタジアム型のビリヤードや、心臓や電気回路など
多くの状況で観察できる。
重要なのは、これらの事例を、多くの独立した作用因が働いて
結果が完全にランダムであるような現象から分離することである。

「知的な振る舞いによって生み出される場合を除いて、
全ての不規則性はランダムではなくカオス的なのだろうか?」
彼はこれを肯定する。

「わたしは、その見かけのランダムネスが基本的に生命の行動に
依存していない、他の現象の多くも、同様に分析できるのではないかと
考える」とローレンツは結論づけた。
同時に、彼は、宇宙の運命は全ての生命の行動も含めて
あらかじめ決まっているという厳格な決定論の概念を否定している。
「したがって、自由な意志を心から信じなければならない」と彼は言う。
「もし自由いない志が現実に存在するならば、
われわれは正しい選択を行えることになる。
もし存在しなくても、間違った選択をすることはない。
自由な意志がなければ、どんな選択も出来ないのだから。」

決定論と予測可能性は同義ではない。

---
・・・よくわからん。訳が悪いのだろうか。

***

ランダムネス

「純粋に数学的な立場から言うとランダムネスの概念は極めてとらえにくく、
その存在すら怪しくなるほどだ」と、
数学者マーク・カッツは1983年に述べていて、
状況に応じて異なった解釈をすることに批判的である。
モノーは「偶然と必然」のなかで、
「操作する上での不確定性」と「本質的な不確定性」とでは
差があるとほのめかし、
例として前者に放射性物質の崩壊、
後者に屋根からレンガが落ちて死んだ医者の数をあげた。

カッツはそうは思っていない。
馬に蹴られて死んだプロシア兵の数の大規模なデータは存在し、
放射性物質の崩壊する原子の数のデータと比べて
二つの事象の分布はとても似ている。

---
自発性の問題の裏返しとして、
何をランダムだと呼ぶか?という問いはあるかもしれない。


***

その他、
バックミンスター・フラーの作ったgeodesicドームの構造の話とか、
振動の同期を相転移に例える話なんかがあって、
いま読んでいるブザキのRhythms of the brainと
話題がかぶっている。

学部時代に数学科の学生に混じって聞いた数学基礎論という授業で、
ラムゼーの定理というのをやった。
「無限集合があって、
すべての元からすべての元へいくように赤か白の糸でつなぐとする。
この場合、赤い糸としつながっていないような元が必ず存在する
ということを証明してごらん」、と先生に言われて、
皆目見当がつかなかった。
いや、無限集合とか赤と白の糸でつなぐとか、そういうキーワードは
覚えているんだけど、実際、そういう問題だったかどうかは
あやしくて、一本だけ白であとは赤、とかそういう問題だったかもしれない。

ともかく、そのわけのわからなかったラムゼーの定理がでてきて、
無限集合論の分野の話だと思っていたら
グラフ理論の話の背景になっているのだということを知って、
知的な興奮を覚えた。

ラムゼーの定理 in Wikipedia
これよんでも全然わからん。

ひとりボーイスカウト

|

この記事は以下のURLに場所が変わる予定です。
http://www.nozawashinichi.sakura.ne.jp/fs/2008/04/post-11.html

日帰りで越谷に来る。
ひとりローバースカウト活動。

BS隊が使用している竹倉庫の修繕をするプロジェクトを
走らせていて、
今回は修繕作業をするための視察。
どんくらい倉庫はボロくなったかを確かめる。
まわりを取り囲む布はボロきれになっていて、
天井のブルーシートはほとんどがはげてベニヤが剥き出しになり、
おそらく雨が振ると中に水が入ってしまう模様。
帰りにホームセンターで修繕に使えそうな材料を物色した。
塩ビのナミイタが安いし、使えそう。

茂木さんにならって、今日の成果をここにかく。
たかが4行ですが。

When we investigate the spontaneous action, a mechanism from which spontaneous actions are generated are considered.

But such concidering makes spontaneity evaporated.

Once the spontaneous actions were described and predicted by some equations, it wouldn't be likely that we call the actions as "spontaneous".

Of cource, it is not a matter whether the mechanism follows either a deterministic process like Newton mechanics or an undeterministic process like the quantum mechanics.


***

ナチョ・リブレという映画を見た。
メキシコの修道僧がプロレスをやるおはなし。
徹頭徹尾清く正しい平和な映画だった。
そこが好感をもてた。
ブランキージェットシティーの「C.B. Jim」という歌には
こういうくだりがある。

"ある日ストリッパーの腕に抱かれて眠ってたボスが目を覚ました
青ざめた顔に冷や汗を浮かべながら

天国行きのエスカレーター
その手すりは、ワニの皮だったぜ

ねむけまなこで台詞を吐き捨て
エンジンふかしたズボンを履き忘れたまま!"

そんな雰囲気の映画。

揮発性自発性

|

この記事は以下のURLに場所が変わる予定です。
http://www.nozawashinichi.sakura.ne.jp/fs/2008/04/post-9.html

今日は雨だった。

***

自発性の問題を考えるといつのまにか自発性が揮発してしまう。

ある行動を見たときにそれが「自発的」に生じたと考えて、
それがどのようなメカニズムで生まれたものなのか解明しようとする。
そのメカニズムが解明されてしまって、
例えば、微分方程式のようなものでその行動が生じる前後の
行動の時間変化を書き表すことができてしまったとする。
そうすると結局はある規則に従ってその行動が生じていただけ
ということになって、
そもそもそのようにして生じた行動を「自発的」と呼ぶものなのか?
ことになってしまう。

それは温度という量は無数の分子の統計量なのであって、
分子1個を取り出してしまうと、
もはやどこにも温度などという量はないのと似ている。

花見の時に塩谷さんと話していたときに、
しきりに「それを自発的だと思うのは誰なの」と聞かれたのだけど、
「自発性」というものはそれを認識する主体抜きには
考えることができない。

自発性を認識する主体は、
何をもってしてある事象を自発的と呼ぶのか。
自発性の問題を考えると言うことは、
それを考えることなのかもしれない。

ランダムに振る舞うものは自発的であるとは言わないし、
レギュラーに動くものも自発的だと言わない。
あるregularityから逸脱したとき、
往々にして自発的と呼ぶのではないか。
それはcontingencyとはどう違うのだろうか。

***

やっと生活にゆとりが出てきて、
自炊をする気が起きた。
でも、あまりわずらわしいことはしたくなくて、
結局 米を炊いただけでおかずはお惣菜屋さんで買ってきてしまった。

今日は雨とはいえ、シャツの上にコートを着ればしのげる寒さだった。
もうセーターはいらないぐらいの気温だ。
それでも、米を研ぐときの水の冷たさはまだ冬のそれだった。




アイテム

  • MacHook.jpg
  • three-mobiles.jpg
  • CIMG1422.JPG
  • CIMG1414.JPG
  • shibusawamainimage.jpg
  • 080531aa.jpg
  • 080517seminar.jpg
  • 080517newOne.jpg
  • 080508OBjacket.jpg

フェムトセカンド1.0

アーカイブ

2008年7月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31