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昨日もふたたび色のワークショップに行った。この日は茂木さんがパネラーとして話す。
茂木さんのブログ
茂木さんのブログを読んであの時はそういうことを言っていたのか!と自分の間違いに気付く。ディスカッションは英語と日本語が入り交じって行われたので、わからないところ多数。イヤホンをつければ同時通訳が聞けたのだが、敢えてそれはしなかった。micro-consciousnessとかempirical consciousnessとかtranscendent consciousnessとか出てきてちょっとびっくりしたが、普段は聞けない意識の突っ込んだ部分の議論が聞けてためになった。オレもいつかあんな知の”空中戦”を繰り広げられるような人間になれるのだろうか。とはいえ英語律速でほとんど内容を掴めていないので、英語を鍛えねばと思う。
その後、急いで帰ってきて鍋パーティ。同期の石川と、中村研の同期ふたりと、オレを含めて4人でキムチ鍋をつつく会が開催された。こんないかにも大学生がやりそうな催しをやるのは自分らしくないなと思っていたが、結果的にはおいしかったし楽しい会となった。石川はわざわざ土鍋を家から持ってきてくれて、そして置いていってくれた。今日は残っている汁で雑炊を作る予定。
最近、茂木さんの言う「世界全体を引き受ける」「やれることは全部やる」ということがしんしんとオレの頭の上に降り積もってくる。段々とその重みが増し、その重みがオレの駆動力に変わりそうな気配がある。オレは昔から「俗っぽい」感じのことを見下していて、それゆえにテレビを見なかったり、流行の歌手やアイドルや芸能人を知らなかったり、現代の小説を読まなかったりするんだけど、それもどこか無理があって歪んだ態度なのではないかと思えてきた。「〜〜っていうドラマ見てる?」とか聞かれて「いや、テレビ見ないから」と答えると相手が「え!テレビみないの!」と驚愕するのを見て密かに優越感を抱いたりしたんだけど、そういう自分がなんてつまんないんだ!と思えてきた。
とりあえず俗っぽいかどうかでその情報に触れるかどうか取捨選択するという態度は間違っているんだ。俗っぽいという印象は作品の前にあるものではなくて、後にあるものだ。友達とキムチ鍋の会をやるなんてのは自分らしくないな、とかいうのもくっだらない邪推なのだ。
"To do everything you can" on Qualia Jounal
以下、2004.6.27.のクオリア日記から抜粋。
アントワープ大学の学会会場。本のセクションで、意識関係の本を眺めていたら、デイヴィド・チャーマーズがばたん!と来た。
「あれ、来てたんだ?」「来てたとは知らなかったよ。」とちょっと立ち話。
Journal of Consciousness Studiesを発行しているKeith Sutherlandとも立ち話。
「最近は雑誌の購読数はどうですか?」「そうですね。あなたも知っているように、一時期、意識に対する関心がわーっと盛り上がって、ニューエージ・タイプの人たちなどが入ってきたのですが、結局、彼らは、論文の内容が難しくて、さーっと潮が引くようにいなくなった。今は、専門家たちが地道に議論するメディアとして、フラットな水準を維持しています。」
Keithの言うように、最近は、会議に来ても落ち着いた感じがある。意識を巡る、基本的な概念セット(クオリア、visual awareness、access consciousness, agency,neural correlate, philosophical zombie、etc.)はすでに確立していて、妙な誤解やミスコミュニケーションがない形で議論ができるようになっている。
「意識の定義は何か?」などというしばしば無知と無感覚の鎧として使われる議論は ムダだし、やらないようになった。
もっとも、意識のhard problemは未だに解かれる気配はないわけで、しかし、だからと言ってやることがないわけではなくて、やることは一杯あるわけで、なんだかいい感じである。
ヨーロッパは、哲学的伝統がデカルト、カントに見られるように科学主義との密接な連関をもって(科学主義と同じような意味で、世界全体を引き受けることを志向して)発達してきたわけで、その点が、世界全体を引き受けることなく気の利いたことを言うことが哲学だと思っている日本とは違う。
意識の科学とは、すなわち、今日において世界のあり方を統合的に引き受けるための試みなのであって、 一見ファッショナブルに流通している日本の思想界の言説は、全て、 その点から見れば、世界観自体には抵触しない部分問題に属するのである。
というようなことをアントワープで思う。
もうひとつ。
うわあとかあかあ on クオリア日記
以下、抜粋。
・・・世界全体を引き受けるとは、明示的な知の体系を組み立てるということではなく、感情の技術なのである・・・
・・・「世界全体を引き受ける」とは、決して、いろいろなことを全てやろうとしたり、複数の場所に同時にいようとしたり、全てを覆う明示的な知の体系を実際に構築することを必要条件とすることではないからだ。・・・
なんか、オレの思う「世界全体を引き受ける」と、茂木さんの言う「世界全体を引き受ける」は違うことのような気がしてきたが、まあいいや。今日は会社の年賀状作りです。
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Author: 野澤真一 / Nozawa Shinichi
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